咸臨丸の出航と歴史背景|万延元年1月13日の決断と現代への遺産
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本日は2026年1月13日です。
カレンダーの日付を見ながら、ふと「過去の今日、一体何が起きたのだろう」と思いを馳せたことはありませんか。
今から160年以上前の今日、すなわち万延(まんえん)元年(1860年)1月13日(旧暦)。
日本の歴史における決定的な転換点となる出来事が起きました。
徳川幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が、太平洋横断という未曽有の挑戦のために、品川沖から出航したのです。
※なお、旧暦の1月13日は、現在の太陽暦(新暦)に換算すると2月上旬(およそ2月4日頃)にあたりますが、日本では伝統的に「1月13日」を咸臨丸出航の記念すべき日として語り継いでいます。
鎖国という長い眠りから覚めたばかりの日本が、なぜ木の葉のような小さな木造船で、世界最大の海・太平洋へ乗り出す決意をしたのでしょうか。
そこには、現代の私たちが直面する「グローバル化」や「激動の時代」を生き抜くヒントが凝縮されています。
教科書では数行で語られるこの出来事ですが、その裏側には、勝海舟の苦悩、福沢諭吉の発見、そして名もなき水夫たちの命がけの戦いがありました。
この記事では、咸臨丸の出航にまつわる重層的な歴史背景を紐解きながら、彼らが嵐の中で何を見、何を勝ち取ったのかを、当時の記録をもとに詳細に再現します。
単なる歴史の勉強ではありません。
これは、未知の世界へ飛び込むすべての「挑戦者」に贈る、勇気と再生の物語です。
1. 咸臨丸とは何か? その定義と驚くべきスペック
物語を進める前に、主役である「咸臨丸」がどのような船だったのか、その実像を正確に把握しておきましょう。現代の巨大なタンカーやフェリーを想像すると、そのあまりの小ささに驚愕するはずです。
オランダ生まれの最新鋭スクリュー汽船
咸臨丸は、江戸幕府がオランダに発注し、1857年に完成した3本マストの木造スクリュー汽船(コルベット艦)です。当時の日本は、1853年のペリー来航(黒船来航)によって「蒸気船」の圧倒的な威力を目の当たりにしていました。海防の強化が急務であると痛感した幕府は、長崎に海軍伝習所を設立すると同時に、練習艦としてこの船を購入したのです。
スペックを詳細に見ると、その特徴がよく分かります。(※数値は資料により諸説ありますが、代表的なものを記載します)
- 建造地:オランダ(キンデルダイク造船所)
- 全長:約49メートル(現代の25メートルプール約2つ分)
- 全幅:約8.5メートル〜8.7メートル
- 排水量:約620トン〜625トン
- 動力:100馬力の蒸気機関と、3本の帆(マスト)
- 推進器:スクリュープロペラ
特筆すべきは「スクリュー推進」である点です。ペリーの黒船(サスケハナ号など)は船の横に水車のようなパドルがついている「外輪船」でしたが、咸臨丸はより波に強く、推進効率の良いスクリューを採用していました。技術的な形式においては、来航した黒船よりも進んだ部分を持っていたと言えます。
しかし、サイズは圧倒的に小型でした。ペリーの旗艦ポーハタン号が約2400トンであったのに対し、咸臨丸はその4分の1程度の大きさしかありません。この「小舟」で冬の太平洋を渡ることが、いかに無謀に近い挑戦であったかが理解できます。
名前に込められた「君臣親しみ合う」という意味
「咸臨丸」という船名は、中国の古典『易経』に由来しています。「咸(みな)臨(のぞ)む」と読み解くことができ、以下の二つの意味が込められているとされています。
「君臣が互いに親しみ合うこと」
「国を治める者が、民に対して慈愛を持って臨むこと」
幕府の権威を示す軍艦でありながら、そこには「調和」や「統合」への願いが込められていました。しかし皮肉にも、実際の航海では、身分制度の厳しい日本社会の縮図のような船内で、武士と水夫、そして日本人とアメリカ人の間で激しい摩擦と融和のドラマが繰り広げられることになります。
2. 咸臨丸が出航した歴史背景|なぜ幕府は太平洋横断を決意したのか
咸臨丸の出航は、決して平和的な親善旅行ではありませんでした。それは、徳川幕府が国内外に自らの力を誇示するための、乾坤一擲(けんこんいってき)の政治的プロジェクトだったのです。
ペリー来航から日米修好通商条約への激動
時計の針を少し戻しましょう。1853年のペリー来航以降、日本国内は「開国か、攘夷(外国を追い払う)か」で真っ二つに割れていました。老中首座・阿部正弘や、後の大老・井伊直弼らは、現実的な路線として開国を選択します。
そして1858年、日米修好通商条約が締結されました。しかし、この条約は関税自主権がないなど、日本にとって不利な不平等条約でした。この条約を正式に発効させるためには、アメリカの首都ワシントンD.C.で、両国の代表が「批准書」を交換する必要がありました。
批准書交換という表向きの理由と、海軍力誇示という真の目的
本来であれば、批准書交換のための使節団(正使:新見正興、副使:村垣範正、目付:小栗忠順ら77名)が渡米すれば事足ります。アメリカ側は、そのための送迎用として最新鋭の軍艦「ポーハタン号」を用意してくれました。
しかし、幕府の一部、特に岩瀬忠震(いわせただなり)や永井尚志(ながいなおゆき)といった開明派の官僚たちは、これに異を唱えました。「アメリカの軍艦にお客として乗っていくだけでは、独立国としての威厳が保てない」と考えたのです。
そこで浮上したのが、「別船(咸臨丸)を護衛として随伴させる」というプランでした。これには大きく二つの狙いがありました。
- 海軍力のデモンストレーション:「日本人は野蛮なアジアの小国ではない。自ら蒸気船を操り、太平洋を横断できる近代国家である」と欧米列強に見せつけること。
- 遠洋航海の実地訓練:長崎海軍伝習所でオランダ人から学んだ航海術が、外洋で通用するかどうかを試す絶好の機会とすること。
こうして、正使たちはポーハタン号に、そして海軍の精鋭たちは咸臨丸に乗り込むという、二段構えの渡米計画が決定したのです。
【年表】1860年1月13日 品川出航からサンフランシスコ到着まで
当時のカレンダー(旧暦)における動きを整理します。本日1月13日が、いかに重要なスタートの日であったかが分かります。
- 万延元年1月13日(新暦1860年2月4日頃):【品川出航】咸臨丸が品川沖を出発。横浜を経由して浦賀へ向かう。
- 1月16日(新暦2月7日頃):【ポーハタン号出航】正使らを乗せた米艦が先行して出航。
- 1月19日(新暦2月10日頃):【浦賀出港】咸臨丸、いよいよ太平洋横断の途へ。
- 2月26日(新暦3月17日):【サンフランシスコ入港】37日間の激闘の末、無事に到着。
この日程を見ると、品川を出てから浦賀で最終的な準備と風待ちを行っていたことが分かります。当時の人々にとって、江戸の海である品川沖を離れることこそが、今生の別れを意味する「出航」の実感だったのかもしれません。
3. 命がけの航海|咸臨丸を襲った「荒天」と「苦難」の実態
「日本人の手で太平洋を横断した」という輝かしい成果は、事実の一側面に過ぎません。実際の航海は、まさに地獄のような過酷さでした。その実態を知ることで、彼らの精神力の凄まじさが浮き彫りになります。
冬の北太平洋という「魔の海」
航海時期に選ばれた2月(新暦)の北太平洋は、一年で最も海が荒れる季節です。偏西風と季節風が衝突し、波の高さは平気で10メートルを超えるとされます。現代の大型コンテナ船でさえ航路を慎重に選ぶこの海域に、600トンの木造船が突っ込んだのです。
出航直後から、咸臨丸は連日の暴風雨に見舞われました。船体は右へ左へと30度以上も傾き、マストの帆は強風で引き裂かれ、甲板には巨大な波が絶え間なく打ち寄せました。船内への浸水を防ぐため、ハッチ(昇降口)は閉め切られ、船内の空気は淀み、蒸し風呂のような状態になりました。
この時の様子について、乗組員の日記には「波が山のように押し寄せ、生きた心地がしなかった」といった趣旨の記述が残されています。具体的な波高の数値記録こそありませんが、その凄まじさは想像に難くありません。
艦長・勝海舟の船酔いと指揮系統の混乱
この航海の日本側責任者(教授方頭取)は、あの勝海舟でした。威勢のいいべらんめえ口調で知られる彼ですが、実はこの航海中、彼はひどい船酔いに苦しめられました。
一部の資料では「指揮不能に陥った」と表現されることもありますが、より正確には「船酔いのため自室(艦長室)にこもることが多かった」というのが実情のようです。長崎での訓練が主に内海で行われており、外洋の激しいうねりに身体が慣れていなかったことが原因と考えられます。
トップである勝海舟が動けない状況は、組織運営上の大きなリスクでした。しかし、これが逆に、現場のクルーたちが自律的に動くきっかけになったとも言えます。
アメリカ人乗組員の不可欠な支援
ここで、咸臨丸の航海を語る上で避けて通れない事実があります。それは、同乗していたアメリカ海軍大尉、ジョン・ブルックら11名のアメリカ人乗組員の存在です。
彼らは、当初は「測量」や「アドバイザー」という名目で乗船していましたが、嵐で日本人乗組員が疲弊しきった際、船を維持するために重要な役割を果たしました。
特に、嵐の中で帆を畳む作業(展帆・畳帆)は、マストの上という高所で行う危険な作業です。恐怖で足がすくむ日本人水夫に代わり、ブルック大尉の部下たちは荒れ狂うマストによじ登り、手際よく作業を行いました。
かつては「日本人の手だけで成し遂げた」と美談化されがちでしたが、近年の歴史研究では、このアメリカ人の支援がなければ航海は失敗していた可能性が高いと評価されています。勝海舟自身も後に、「アメリカ人の助けがなければ、船は沈んでいたかもしれない」といった趣旨の回想を残しています。
しかし、これは日本人の無能を示すものではありません。当時の日本人乗組員たちは、プライドを捨てて彼らの動きを必死に観察し、航海の後半には自ら危険な作業をこなせるまでに成長していきました。この「学びの速さ」こそが、日本の底力だったのです。
4. 咸臨丸に乗った3人の偉人とその後の日本
咸臨丸には、後に明治日本のリーダーとなる傑物たちが乗り合わせていました。狭い船内での彼らの経験は、そのまま近代国家日本の設計図となりました。
1. 勝海舟:幕府の威信を背負ったリーダー
船酔いに苦しみながらも、彼は「軍艦奉行・木村摂津守」を支え、アメリカ側との交渉や全体の統括を行いました。サンフランシスコ到着後、彼はアメリカの社会制度や海軍の実情を冷静に分析します。この経験が、後の「江戸無血開城」という高度な政治判断や、日本海軍の創設へとつながっていきます。
2. 福沢諭吉:『西洋事情』を生んだ観察眼
当時25歳、中津藩の下級武士だった福沢諭吉は、従者として自ら志願して乗船しました。彼は技術的なことよりも、アメリカの「文化」と「価値観」に強烈なカルチャーショックを受けました。
- 実力主義:初代大統領ワシントンの子孫が、今はどうしているか誰も知らないこと。(家柄ではなく個人の能力が重視される社会)
- 商習慣:氷や水までもが商品として売買されていること。
- 男女関係:男性が女性に席を譲るレディーファーストの精神。
彼が現地で購入した『ウェブスター大辞書』は、日本の英語教育の礎となりました。そして帰国後に出版した『西洋事情』は、当時の日本人の世界観を根底から覆すベストセラーとなったのです。
3. ジョン万次郎:日米の架け橋となった通訳
かつて漂流してアメリカの捕鯨船に助けられ、現地で教育を受けたジョン万次郎(中浜万次郎)。彼は通訳としてだけでなく、実務的な航海士としても活躍しました。ブルック大尉らアメリカ人クルーと対等に話せる唯一の人物として、日米の意思疎通のパイプ役を果たしました。彼の存在がなければ、船内の不和は致命的なものになっていたかもしれません。
5. 咸臨丸の歴史的意義とメリット|日本にもたらした3つの成果
咸臨丸の航海は、莫大な費用とリスクを伴うものでしたが、それに見合う、いやそれ以上のリターンを日本にもたらしました。
1. 「自分たちで海を渡った」という国民的自信
アメリカ人の助けがあったにせよ、日本の軍艦が日の丸を掲げて太平洋を横断した事実は、当時の日本人にとって計り知れない自信となりました。「西洋人にできて、日本人にできないことはない」という確信は、その後の急速な近代化を精神面で支えるエンジンとなりました。
2. 西洋文明の「リアル」な摂取
それまでの「蘭学(オランダ学問)」は、書物を通じた知識が中心でした。しかし、咸臨丸の乗組員たちは、生きた英語、実際の蒸気機関、アメリカの街並み、人々の振る舞いを「五感」で体験しました。この一次情報は、机上の空論ではない、実効性のある政策や教育へと変換されていきました。
3. 国際社会におけるプレゼンスの向上
サンフランシスコに入港した咸臨丸は、現地新聞で大きく取り上げられました。アジアの小国が、近代的な軍艦を運用してやってきたことに、アメリカ人は驚きと敬意を表しました。サンフランシスコ造船所でのドック入り(修理)の際も、市を挙げての歓迎を受けました。これは、日本が「対等な交渉相手」としての資格を持つことを示す第一歩となったのです。
このような歴史的意義について、より深く知りたい方は、以下の資料も参照することをお勧めします。
出典:外務省 - 外交史料館 特別展示「万延元年遣米使節」
6. その後の咸臨丸|北海道・サラキ岬での悲劇的な最期
栄光の航海を終えた咸臨丸ですが、その晩年は悲劇的でした。
帰国後、咸臨丸は小笠原諸島の視察などに使われましたが、蒸気機関の老朽化が進み、やがてエンジンを下ろされて純粋な帆船(輸送船)へと格下げされました。
そして時代は明治へと移ります。戊辰戦争の混乱の中、咸臨丸は旧幕府軍の榎本武揚らと合流するため、北海道を目指して品川を脱走します。しかし、明治4年(1871年)、北海道木古内町のサラキ岬沖で激しい暴風雨に遭い、座礁。そのまま冷たい北の海へと沈んでいきました。
太平洋を越えた英雄的な船としては、あまりにあっけない最期でした。現在、木古内町のサラキ岬には咸臨丸のモニュメントが設置され、海底から引き揚げられた錨(いかり)が静かに眠っています。その場所は、春にはチューリップが咲き乱れる公園となり、咸臨丸の魂を慰めています。
7. 現代に学ぶ咸臨丸の教訓|歴史背景から読み解く未来
1860年1月13日の出航から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。咸臨丸の物語は、現代のビジネスや生き方にも通じる普遍的な教訓に満ちています。
危機におけるリーダーシップとフォロワーシップ
勝海舟は船酔いで倒れましたが、組織は崩壊しませんでした。木村摂津守が精神的支柱となり、アメリカ人が技術を補完し、ジョン万次郎がつなぎ、若き福沢諭吉らがそれを記録しました。リーダーが万全でない時、フォロワーがいかに自律的に動けるか。咸臨丸は、まさに現代で言う「自律分散型組織」のような動きを見せたのです。
異文化との「共闘」こそがイノベーションを生む
もし、日本人だけで意地を張って航海を続けていたら、咸臨丸は沈没していたでしょう。逆に、全てをアメリカ人に任せていたら、日本人の技術習得はあり得ませんでした。「自立」を目指しつつも、必要な時には素直に他者の力を借りる。このバランス感覚こそが、グローバル社会で成功するための鍵です。
「リスキリング」へのあくなき意欲
乗組員の多くは、髷(まげ)を結い、刀を差した武士でした。しかし彼らは、海の上で必死に測量術や天文学を学びました。伝統的な価値観を持ちながらも、新しいスキルを貪欲に吸収する姿勢。これこそ、AIやDXといった変化の波にさらされる現代人が見習うべき「リスキリング(学び直し)」の原点と言えるでしょう。
1月13日、あなたの「咸臨丸」を出航させよう
1860年1月13日、咸臨丸は品川沖を出航しました。
その決断は、当時の常識を覆す無謀なものでしたが、結果として日本の未来を大きく切り拓くことになりました。
歴史背景を深く知ることで、単なる年号の記憶は、生きた教訓へと変わります。
彼らが嵐の中で見出したのは、新しい大陸だけでなく、新しい自分たちの可能性でした。
今日は1月13日。咸臨丸の出航記念日です。
もしあなたが今、新しいプロジェクトを始めようか迷っているなら、あるいは人生の荒波に立ちすくんでいるなら、166年前に小さな木造船で大海原へ旅立った先人たちのことを思い出してください。
彼らの冒険心は、時を超えて、今も私たちのDNAの中に息づいています。
さあ、あなた自身の「咸臨丸」の帆を上げ、新しい海へと漕ぎ出しましょう。