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小栗上野介と東善寺:横須賀製鉄所を作った男の最期の地を訪ねて

   

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群馬県高崎市倉渕町にある東善寺は、江戸幕府の勘定奉行を務め、横須賀製鉄所(現・横須賀造船所)の建設を主導した小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)が非業の最期を遂げた場所です。

日本の近代化に大きく貢献しながらも、時代に翻弄された小栗上野介。

彼と東善寺の深い繋がり、そしてその足跡を辿ります。

 

なぜ東善寺が重要なのか?小栗上野介との繋がり

東善寺は1633年(寛永10年)に開かれた歴史ある寺院です。

小栗家との縁は江戸時代中期、五代目当主の小栗政信公が寺の復興に尽力したことに始まります。

その縁は代々受け継がれ、幕末の当主、小栗上野介の時代まで続きました。

小栗上野介は幕府の要職を歴任し、日本の近代化を推し進めましたが、1868年(慶応4年)、新政府軍に捕らえられ、無実の罪で斬首されました。

東善寺は彼が新政府軍に追われる中、約2ヶ月間、家族と共に身を寄せ、最期を迎えた場所なのです。

東善寺は小栗上野介の功績と、彼が信じた日本の未来への想いを今に伝える貴重な場所と言えるでしょう。

 

東善寺で辿る小栗上野介の足跡

東善寺の境内には小栗上野介とその家族、家臣たちの墓が静かに並んでいます。

明治初年、地元権田の村人たちによって建立された墓は、以下の配置となっています。

  • 正面:小栗父子の墓
  • 左右:家臣や家族、村人たちの墓

墓の傍らにある「小栗椿」は静寂の中で、訪れる人々に深い感動を与えます。

この椿は小栗上野介の死後、彼を慕う人々によって植えられたと伝えられています。

境内にある「小栗公遺品館」では小栗上野介や関係者の遺品が展示されており、彼の生きた時代や功績を偲ぶことができます。

入館料は100円です。

展示品には彼が使用した文具や書簡、愛用品などが含まれており、彼の人物像を垣間見ることができます。

 

東善寺:歴史と自然が織りなす空間

東善寺は歴史だけでなく、美しい自然に囲まれていることでも人々を魅了しています。

春は桜、秋は紅葉と四季折々の彩りが楽しめます。

また、境内の立派な赤松は一見の価値ありです。

  • 高崎市指定史跡:「権田栗毛お母衣明神」「権田栗毛岩下岩窟観音」

 

小栗上野介の人物像:先見性と不屈の精神

小栗上野介は1827年(文政10年)、江戸に生まれました。

幼少期から聡明で、学問に秀でていました。

彼は西洋の技術や思想に強い関心を持ち、蘭学を学びました。

その知識と語学力は、後に幕府の外交官として活躍する上で大いに役立ちました。

小栗上野介は非常に先見性に富んだ人物でした。

彼は日本の未来のためには西洋の技術を積極的に導入し、近代化を進める必要があると強く信じていました。

しかし彼の改革は保守的な勢力からの反発を招き、彼の立場を危うくすることもありました。

彼は強い信念と不屈の精神を持った人物でした。

困難な状況に直面しても決して諦めることなく、自分の信じる道を突き進みました。

その姿は現代の私たちにも勇気を与えてくれます。

 

東善寺での生活:束の間の安らぎ

1868年(慶応4年)、江戸幕府が崩壊し、新政府軍が江戸に迫ると、小栗上野介は家族と共に領地である上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町)に身を隠しました。

彼らは東善寺に仮住まいし、新しい住居の完成を待ちました。

東善寺での生活は、小栗上野介にとって束の間の安らぎの時でした。

彼は家族と穏やかな時間を過ごし、時には地元の人々と交流しました。

彼は村人に学問を教えたり、村の子供たちと遊んだりすることもあったと言われています。

しかしその平穏な日々は長くは続きませんでした。

新政府軍の捜索の手が伸び、彼は捕らえられてしまうのです。

 

処刑の背景:時代の激流と悲劇

小栗上野介が処刑された背景には、当時の複雑な政治情勢がありました。

新政府は旧幕府勢力を徹底的に排除しようとしており、小栗上野介は、その有力な一員と見なされていました。

新政府は小栗上野介に「新政府への反逆」という濡れ衣を着せ、十分な取り調べも行わずに処刑を決定しました。

彼の処刑は新政府による旧幕府勢力への見せしめという意味合いが強かったと言われています。

小栗上野介の処刑は日本の近代化にとって大きな損失でした。

彼の先見性、知識、そして実行力があれば、日本の近代化はもっとスムーズに進んだかもしれません。

彼の死は、時代の激流が生んだ悲劇と言えるでしょう。

 

小栗上野介と地元住民:心温まる交流

小栗上野介は東善寺に滞在中、地元住民と積極的に交流しました。

彼は村人に学問を教えたり、相談に乗ったりすることもあったと言われています。

村人たちは彼の博識と温かい人柄に惹かれ、彼を深く尊敬していました。

小栗上野介が処刑された後、村人たちは彼の死を深く悼み、密かに彼の墓を建てました。

その墓は現在も東善寺の境内に静かに佇んでいます。

村人たちの行動は、小栗上野介がいかに地元の人々に慕われていたかを物語っています。

 

現代における小栗上野介の評価:再評価の動き

小栗上野介は長い間、歴史の中で正当に評価されてきませんでした。

しかし近年、彼の功績が見直され、再評価の動きが高まっています。

彼の先見性、日本の近代化への貢献、そして不屈の精神は現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。

彼の生き方は困難な時代を生き抜くための指針となるでしょう。

小栗上野介の顕彰活動も活発になっています。

東善寺では「小栗まつり」が毎年開催され、彼の功績が語り継がれています。

また、彼の生涯を描いた小説やドラマも制作され、多くの人々に感動を与えています。

 

小栗上野介の功績:日本の近代化を牽引

小栗上野介は、幕末の激動期に日本の近代化を推進した中心人物の一人です。

彼の主な功績を振り返ってみましょう。

  1. 日米修好通商条約の批准(1860年): 遣米使節団の一員として渡米、条約批准に尽力。
  2. 横須賀製鉄所建設: フランスの協力を得て、日本初の近代的製鉄所を建設。日本の造船技術発展の礎を築く。
  3. 幕府の近代化改革:
    • 勘定奉行として財政改革を断行。
    • 外国奉行として外交交渉にあたる。
    • 陸軍奉行、海軍奉行として洋式軍隊の導入を推進。
  4. その他の功績: 鉄道建設の準備、貨幣制度の改革、貿易会社の設立などを推進。

東善寺へのアクセス・拝観案内

  • アクセス:
    • 車:関越自動車道 高崎ICから国道406号線経由、中之条方面へ約50分。前橋ICから約43分。
    • 公共交通機関:JR高崎駅からバスで約50分。
  • 拝観料: 無料(小栗公遺品館は100円)
  • 駐車場: 無料

東善寺「小栗まつり」(毎年5月)

東善寺では、毎年5月に「小栗まつり」が開催され、小栗上野介の功績を称え、地域の活性化を図っています。

式典、記念講演、演奏会、地元物産の販売など、多彩な催しが行われます。

最新の情報は東善寺または高崎市の公式サイトでご確認ください。

 

まとめ:東善寺で小栗上野介の遺志に触れる

日本の近代化に尽力した小栗上野介。

彼が最期を迎えた東善寺を訪れ、その足跡を辿ることで、幕末の激動の時代と、日本の未来を信じた小栗上野介の熱い想いを感じることができるでしょう。

彼の生き方、そして彼が残したものは、現代を生きる私たちに、多くの示唆と勇気を与えてくれます。

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