【徹底解説】蔦屋重三郎はなぜ罰せられた? 江戸の大ヒットメーカーの秘められた理由
はじめに:蔦屋重三郎が処罰された、意外なわけとは?
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今回は江戸時代にタイムスリップし、ある有名な人についてお話しします。
その人の名は蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)。
江戸で一番有名な出版プロデューサーで、今で言うと大人気のマンガ家や作家さんを見つけて大ヒット作品を生み出したすごい人です!
そんなすごい蔦屋重三郎ですが、実はお役人から罰を受けてしまいました。
大成功していたのになぜ蔦屋重三郎は処罰されてしまったのでしょう?
本記事ではその理由を分かりやすく説明します!
第1章:蔦屋重三郎が処罰された謎に迫る!
蔦屋重三郎の処罰の謎 - 江戸の出版王の、光と影
まずは蔦屋重三郎への処罰とは何だったのか簡単に説明しますね。
蔦屋重三郎は今から約230年前の江戸でたくさんの本を出して「江戸の出版王」とも呼ばれていました。
ところが1791年、急にお役人から罰を受けてしまいます。
一体何が起こったのでしょう?
実は蔦屋重三郎が処罰されたことには当時の江戸の様子が大きく関係しています。
その頃江戸幕府は「寛政の改革」という政治改革を行っていました。
この改革で幕府は人々の暮らしを厳しくチェックするようになったのです。
蔦屋重三郎の処罰の裏にある、本への厳しいルール
蔦屋重三郎と寛政の改革
「寛政の改革」では世の中を正しくするために、本に対しても厳しいチェックが行われました。
幕府の政治を批判したり、世の中を面白おかしく描いたりするような内容は厳しく取り締まられたのです。
蔦屋重三郎への処罰も、この本への取り締まりの一つでした。
なぜ本への取り締まりが?
幕府はなぜ本を厳しく取り締まったのでしょう?
それは人々の考え方に影響をあたえる本を管理することで、世の中を安定させようとしたからです。
特に幕府の政治を批判するような本が出ると、人々が幕府に不満をもって反乱などを起こすかもしれません。
幕府はそうしたことが起こらないように、本への取り締まりを行ったのです。
なぜ厳しくなったの?
当時の江戸は世の中が大きく変わっているときでした。
お金持ちの商人が力を持ち始め、一方で武士の生活は苦しくなっていました。
外国からの圧力も強くなり、世の中全体に不安が広がっていました。
幕府はこうした世の中の不安定さを抑えるために、厳しい取り締まりを行いました。
そしてその一つとして蔦屋重三郎も罰せられたのです。
第2章:蔦屋重三郎への処罰、その中身は?
どんな罰だったの?
では蔦屋重三郎は具体的にどんな罰を受けたのでしょう?
蔦屋重三郎は財産の半分を没収されてしまいました。
これは今で言うと、家や土地、お店などを半分取られてしまうということです。
とても厳しい罰ですよね!
さらに蔦屋重三郎だけでなく、彼が出した本の作者たちも罰を受けました。
財産の半分が没収!
財産の半分がなくなるのは当時の人にとって、とても大変なことでした。
特に商人である蔦屋重三郎にとっては商売のもとになるお金を失うということです。
蔦屋重三郎への処罰は彼の仕事に大きな影響を与えました。
その後の生活は?
蔦屋重三郎は処罰され、その後どうなったのでしょう?
財産も仕事のチャンスも失い、社会的にも大ピンチ!
それでも彼はこの大変な状況でもあきらめず、また本を出す仕事で成功します。
そのことは、また後でくわしく説明しますね!
一緒に罰せられた、2人の人気作家
実は蔦屋重三郎だけでなく、彼とつながりのあった2人の人気作家も罰を受けました。
その2人とは恋川春町(こいかわ はるまち)と山東京伝(さんとう きょうでん)です。
彼らも、当時の江戸で大人気の作家でした。
恋川春町と蔦屋重三郎
恋川春町は『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』などの黄表紙(きびょうし)で有名な作家です。
黄表紙とは当時のマンガの事です。
春町は幕府の政治を面白おかしく描いたので罰を受けることになりました。
残念なことに春町は処罰の前に亡くなっていましたが、もし生きていたら彼も罰を受けていたでしょう。
春町を有名にしたのは蔦屋重三郎だったため、蔦屋重三郎の処罰にも大きく関わっていました。
山東京伝と蔦屋重三郎
山東京伝は『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』などの洒落本(しゃれぼん)で有名な作家です。
洒落本とは、遊郭などを舞台にした大人向けの小説です。
京伝は50日間、手錠をかけられるという罰を受けました。
これは今で言う、自宅謹慎。
つまりしばらく家から出てはいけないという罰です。
京伝も蔦屋重三郎が出した作家の一人で、蔦屋重三郎が処罰されたことと深い関わりがありました。
第3章:蔦屋重三郎が処罰されたわけを、もっと詳しく!
直接の理由 - 問題になった3つの作品
ではなぜ蔦屋重三郎は罰せられたのでしょう?
実は彼が出した3つの黄表紙が問題になりました。
その3つとは、恋川春町が書いた『志懸(しつかけ)の行脚(あんぎゃ) 孝行(こうこう) 猿(さる)』、同じく恋川春町が書いた『時世(じせい) 粧(よそおい) 年代記(ねんだいき)』、そして山東京伝が書いた『箱入娘面屋(はこいりむすめおもや) かたの背(せ) かがみ』です。
これらの作品が幕府の政治を批判していると判断されたのです。
そしてこれらを出した責任を取って、蔦屋重三郎は処罰されました。
『志懸の行脚 孝行 猿』
この作品は一見すると親孝行な猿のお話のように見えます。
でも実は、当時の幕府の役人を猿に見立て、そのダメなところを描いたお話だと、お役人たちは考えました。
そのため幕府の怒りを買ったのです。
『時世 粧 年代記』
この作品は江戸の女性のファッションの歴史を描いた昔のファッション雑誌のようです。
しかし実は、当時の世の中の様子をおもしろおかしく描いた作品だと考えられました。
これもまた幕府の怒りを買うことになりました。
『箱入娘面屋 かたの 背 かがみ』
この作品は表向きは遊女たちの会話を描いた小説です。
しかしその内容が幕府の政治を批判していると考えられました。
特に登場人物の会話の中に幕府の役人をバカにするような言葉があったことが問題になりました。
蔦屋重三郎の考えと、幕府の考えの違い
これらの作品はどれも当時の社会を面白おかしく描いたものでした。
しかし幕府はそれを許しませんでした。
幕府は世の中を安定させるために人々の考え方をコントロールしようとしていたのです。
そのため幕府の政治を批判したり、社会を面白おかしく描いたりするような本は厳しく取り締まりました。
蔦屋重三郎が処罰されたのは幕府が求める本と蔦屋重三郎が出した作品との間に大きな違いがあったからです。
面白おかしく描くことが問題に
江戸の人々は社会への不満や政治への批判を直接言えませんでした。
故に黄表紙や洒落本などのフィクション、つまり作り話を通して間接的に表現していたのです。
それでも幕府はそうした間接的な表現さえも許しませんでした。
蔦屋重三郎が処罰されたことには社会を面白おかしく描くこと自体が問題とされた当時の世の中の様子が表れています。
浮世絵はなぜ大丈夫だったの?
ここで、「あれ? 同じように社会を面白おかしく描いた浮世絵は、あまり罰せられなかったのはなぜ?」と疑問に思う人もいるでしょう。
それは浮世絵が黄表紙や洒落本ほど多くの人に影響を与えなかったからです。
当時の浮世絵は字が読めない人でも楽しめるように絵だけで内容が分かるようになっていました。
ただしその反面、黄表紙や洒落本ほど深い意味を伝えられませんでした。
故に幕府は、浮世絵よりも黄表紙や洒落本をより危ないものだと考えたのです。
とは言え、蔦屋重三郎が出した浮世絵は当時の人々から大人気でした。
ですから蔦屋重三郎への処罰は浮世絵ファンにとっても、とてもショックな出来事だったのです。
第4章:蔦屋重三郎、処罰後の大活躍!
復活! - あきらめない心で再スタート
財産の半分を没収されるという厳しい罰を受けた蔦屋重三郎。
それでも彼は決してあきらめませんでした。
なんと罰を受けてから数年後、蔦屋重三郎は再び本を出す仕事を始め、見事に復活したのです!
その復活はまるで「不死鳥」のようでした。
どうやって復活したの?
蔦屋重三郎は処罰された後、しばらく本を出す仕事から離れなければなりませんでした。
それでもその間も彼は決してあきらめず、もう一度立ち上がるチャンスを待っていました。
そして数年後、彼は再び本を出す仕事を始めます。
今度は幕府のルールに引っかからないよう、より慎重に本を出すようにしました。
反省を生かして
蔦屋重三郎は処罰されたことで、たくさん反省しました。
彼は自分の出す本が社会にどんな影響をあたえるのかをより深く考えるようになりました。
そしてこれからは幕府の考えに反しない、より良い本を出すことを決心したのです。
新しい才能との出会い - 葛飾北斎との出会い
実は蔦屋重三郎が処罰されたことは、あるすごい才能との出会いにつながりました。
それが後に世界的に有名になる浮世絵師、葛飾北斎(かつしか ほくさい)です。
蔦屋重三郎は北斎の才能を見つけ、彼を世に送り出したのです。
もし蔦屋重三郎への処罰がなければ、北斎の才能は世に出なかったかもしれません。
どうやって才能を見つけたの?
処罰を受けた後、蔦屋重三郎はより慎重に本を出すようになりました。
でもその一方で、彼は新しい才能を見つけることにも力を入れました。
彼は若い才能を見つけると、積極的に応援し、彼らの作品を世に出したのです。
北斎もそのようにして蔦屋重三郎に見つけられた一人でした。
葛飾北斎と蔦屋重三郎、2人の強い絆
北斎は蔦屋重三郎の応援を受け、たくさんの名作を生み出しました。
特に北斎の代表作である『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』は蔦屋重三郎の協力がなければ生まれなかったかもしれません。
蔦屋重三郎が処罰されたことは北斎との出会いにつながり、2人の間には強い絆が生まれたのです。
第5章:蔦屋重三郎の処罰から学ぶ、現代を生きるヒント
表現の自由と責任
蔦屋重三郎の一件は現代を生きる私たちにもたくさんのヒントを与えてくれます。
その一つは表現の自由と責任の関係です。
私たちは自由に自分の意見を言えます。
でもその一方で、自分の言ったことが社会にどんな影響をあたえるのかをいつも考えなければなりません。
「表現の自由」ってなんだろう?
蔦屋重三郎が処罰されたことから表現の自由とは無制限に何でも言って良いということではないことが分かります。
私たちは自由に自分の意見を言えますが、その表現が他の人を傷つけたり、社会を混乱させたりする場合は制限されることもあります。
「表現の自由」とは自分の意見を自由に言う権利であると同時に、その言葉に責任を持つことでもあるのです。
現代社会で気をつけることは?
現代はインターネットやSNSなどで誰もが簡単に自分の意見を世界に発信できます。
でもその一方で、自分の発言が思いもよらない形で広まり、他の人を傷つけたり社会を混乱させたりするかもしれません。
私たちは蔦屋重三郎の一件から自分の言葉に責任を持つことの大切さを学ぶことができます。
ピンチをチャンスに変える力
もう一つのヒントはピンチをチャンスに変える力です。
蔦屋重三郎は財産の半分を没収されるというとても大変な目にあいました。
でも彼は決してあきらめず、努力を続け、最後には復活しました。
彼の生き方は私たちにピンチになっても負けずに前に進むことの大切さを教えてくれます。
勇気を与えてくれるエピソード
蔦屋重三郎が処罰されたことは彼の人生で一番のピンチでした。
それでも彼はこのピンチを乗り越え、より大きな成功をつかみました!
彼の生き方は私たちにどんな大変なことがあっても決してあきらめずに前に進むことの大切さを教えてくれます。
彼の生き方は私たちに勇気を与えてくれるすごいエピソードです。
困難に立ち向かうには?
私たちは生きていく中でいろいろな大変なことに出会います。
でもそんな時こそ、蔦屋重三郎の生き方を思い出してください。
彼はとても大変な目にあっても決してあきらめず、努力を続け、最後には復活しました。
彼の生き方は私たちに困難に立ち向かうためのヒントを与えてくれます。
蔦屋重三郎のエピソードを胸にどんなことも乗り越えていきましょう!
まとめ:蔦屋重三郎の処罰の本当の理由と、江戸文化への大きな影響
蔦屋重三郎への処罰は寛政の改革という江戸時代の大きな変わり目に起きた出来事でした。
この処罰は蔦屋重三郎だけでなく、当時の本に関わる仕事をする人たちみんなに大きな影響を与えました。
それでも蔦屋重三郎はこの処罰を乗り越え、再び本を出す仕事で成功しました。
彼の活躍は江戸の文化、特に浮世絵を有名にするためにとても大きな力となりました。
処罰の本当の理由
蔦屋重三郎が処罰された本当の理由は幕府による厳しい本の取り締まりにありました。
幕府は世の中を安定させるため、人々の考え方に影響をあたえる本を管理しようとしていたのです。
蔦屋重三郎が出した黄表紙や洒落本は幕府の政治を批判したり、社会を面白おかしく描いたりする内容だったため処罰の対象になりました。
現代の私たちへのメッセージ
蔦屋重三郎の一件は現代を生きる私たちに表現の自由と責任について考えるきっかけを与えてくれます。
私たちは自由に自分の意見を言えます。
でもその一方で自分の言葉が社会にどんな影響をあたえるのかをいつも考えなければなりません。
また蔦屋重三郎の生き方はピンチをチャンスに変え、前に進むことの大切さを教えてくれます。
江戸文化への大きな影響
蔦屋重三郎は処罰を受けた後も本を出す仕事を続け、たくさんの名作を世に送り出しました。
特に葛飾北斎など才能のある浮世絵師を応援し、浮世絵を有名にするためにとても大きな活躍をしました。
蔦屋重三郎への処罰は彼にとって大変な出来事でしたが、彼はこのピンチを乗り越え、江戸の文化のためにとても大きな貢献をしたのです。
もっと知りたい人へ
蔦屋重三郎が処罰されたことは江戸の文化や社会を知る上でとても面白い出来事です。
本記事をきっかけに蔦屋重三郎についてもっと深く調べてみてください。
きっと新しい発見があるはずです!
参考文献
- 吉原健一郎『蔦屋重三郎』(ミネルヴァ書房、2010年)
- 中野三敏『近世風俗見聞録』(岩波書店、2019年)
- 「江戸東京博物館」ウェブサイト
- 「国立国会図書館」ウェブサイト