【完全解説】豊臣兄弟 但馬攻め 史実まとめ!秀長の台頭と過酷な戦局の全貌

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- 豊臣兄弟(とよとみきょうだい)による但馬攻め(たじまぜめ)は、天正5年(1577年)と天正8年(1580年)に行われた史実である。
- 生野銀山(いくのぎんざん)の確保と、毛利(もうり)攻めに向けた山陰(さんいん)ルートの安全確保が重要な目的であった。
- 弟・羽柴秀長(はしばひでなが/後の豊臣秀長)が攻略の主力を担い、武将としての存在感を高めた戦役である。
- 天正8年以降も在地勢力の抵抗は続き、平定には多大な困難と年月を要した。
戦国時代、織田信長(おだのぶなが)の命を受けた羽柴秀吉(はしばひでよし/後の豊臣秀吉)とその弟・羽柴秀長によって実行された「但馬攻め」は、織豊政権の基盤を築く上で重要な軍事行動でした。
現在、大河ドラマなどの映像作品でも彼らの活躍が描かれていますが、実際の歴史(史実)においてはどのような背景があり、どれほどの苦難があったのでしょうか。
本記事では、「豊臣兄弟 但馬攻め 史実」というテーマに沿って、当時の戦局展開、秀長の軍事司令官としての台頭、そして但馬国(たじまのくに/現在の兵庫県北部)にもたらした歴史的転換について解説します。
ドラマの演出とは一味違う、リアルで複雑な戦国時代の息吹を感じてみてください。
⚔️ 豊臣兄弟 但馬攻め 史実とは?作戦の全貌と時代背景
豊臣兄弟(羽柴兄弟)による但馬攻めを深く理解するためには、まずこの軍事行動がいつ、どのような状況下で行われたのかを把握する必要があります。
ここでは、その概要と当時の時代背景を紐解きます。
但馬攻めの実施期間と複雑な戦局
史実における但馬攻めとは、主に天正5年(1577年)および天正8年(1580年)の2度にわたり、現在の兵庫県北部にあたる但馬国へ羽柴軍が侵攻した軍事作戦を指します。
文化庁や各自治体の文化財保存活用計画等においても、この戦役は中世から近世への移行を決定づけた地域史の重要な転換点として記録されています。
しかし、一朝一夕に平定されたわけではなく、在地勢力の激しい抵抗を乗り越えながら長期的な視点で進められた戦役でした。
織田信長が掲げた「中国攻め」における戦略的意義
この戦役は単なる領土拡大ではなく、主君・織田信長が命じた巨大プロジェクト「中国攻め」の一環として実行されました。
当時、西国で強大な勢力を誇っていた毛利氏を討伐するためには、播磨国(はりまのくに/兵庫県南西部)から進軍ルートを確保する必要がありました。
但馬国は播磨の北に位置しており、背後からの奇襲を防ぐという意味でも、戦略上この地域を制圧する必要性が極めて高かったのです。
山名氏と国人領主たちが割拠する但馬の情勢
当時の但馬国は、室町時代から続く名門の守護大名・山名氏(やまな氏)が一定の支配力を持っていました。
しかし、その権力は絶対的なものではなく、太田垣氏(おおたがき氏)や垣屋氏(かきや氏)といった有力な国人領主(こくじんりょうしゅ)が各地で独立した力を持っており、情勢は非常に複雑でした。
羽柴軍は、単に山名氏の当主を倒すだけでなく、これら複雑に絡み合った在地勢力と対峙する高度な軍事的・政治的対応を迫られたのです。
💰 豊臣陣営が但馬制圧を急いだ史実上の理由
多大な労力をかけてまで、なぜ但馬国へ軍を進めたのでしょうか。
そこには、のちの天下統一を支える重要な戦略的メリットが存在していました。
生野銀山という重要な経済拠点の確保
但馬攻めの重要な目的の一つが、国内有数の鉱山である「生野銀山」への影響力確保です。
生野銀山は戦国期を経て織田・豊臣の直轄鉱山となり、但馬支配の重要な経済拠点として機能していくことになります。
戦国大名にとって金銀の採掘は軍資金に直結するため、この地域の経済基盤を押さえることは大きな意味を持っていました。
毛利攻めを見据えた山陰ルートの安全確保
前述の通り、毛利氏と戦う最前線の安全を確保するためには、背後にある但馬を平定することが不可欠でした。
但馬の主要街道や交通の要衝を制圧することで、後の「鳥取城(とっとりじょう)の戦い」などへ続く山陰地方への侵攻において、進軍ルートが確立されていきました。
兵站(ロジスティクス)を重視した秀吉らしい周到な戦略の一環であったと言えます。
羽柴秀吉と羽柴秀長が担った役割と連動性
この戦役では、兄弟の連動した軍事行動が確認できます。
兄の秀吉が中国方面全体を担う中で播磨戦線に注力し、弟の秀長が別働隊を率いて但馬攻略の主力を担うという形がとられました。
秀吉が全体を指揮し、秀長が前線での攻略と事後処理を担うという体制は、その後の豊臣政権における彼らの役割分担の先駆けとなりました。
| 人物名 | 所属・立場 | 但馬攻めに関連する史実上の動向 |
|---|---|---|
| 羽柴秀吉 | 織田軍 中国方面軍司令官 | 中国攻め全体を指揮し、天正8年や天正9年には自らも但馬へ出陣したとされる。 |
| 羽柴秀長 | 秀吉の弟・別働隊主将 | 天正5年より但馬侵攻の主力を担う。後に竹田城を拠点として地域の管理に関与。 |
| 山名佑豊(山名氏政) | 但馬国 守護大名 | 有子山城を本拠地とした。天正8年の羽柴軍侵入により、一族の広域支配が終焉を迎える。 |
| 太田垣輝延 | 竹田城 城主(国人領主) | 但馬南部の有力領主。羽柴軍の侵攻により没落し、竹田城は織豊方の拠点となる。 |
🔥 【天正5年】第一次但馬攻めの史実と戦局
それでは、具体的な戦闘の推移を追ってみましょう。
天正5年(1577年)に行われた「第一次但馬攻め」は、羽柴軍が但馬へ本格的に進出する足がかりとなった戦いでした。
秀吉の播磨進軍と秀長の但馬侵攻ルート
天正5年10月、信長より中国地方の平定を命じられた秀吉軍は播磨へ進軍を開始しました。
これに連動する形で、秀長率いる部隊が播磨側から但馬国へと侵攻を開始します。
この作戦により、但馬の南部に位置する在地領主たちは織田方の強大な軍事力に直面することになりました。
竹田城の制圧と羽柴方拠点化へのプロセス
侵攻における重要な舞台となったのが、但馬の南の玄関口である「竹田城(たけだじょう)」です。
天正5年の秀長による但馬攻めで、この地は羽柴方の重要拠点となっていきました。
なお、竹田城の完全な落城や長年城主を務めた太田垣氏の没落時期については、朝来市(あさごし)の資料等で天正8年とする記述もあり、数年にわたる攻防の末に織豊方の支配が固まったと考えられます。
城山城における小代一揆と在地勢力の激しい抵抗
羽柴軍の侵攻に対し、地元勢力も黙っていたわけではありません。
香美町(かみちょう)の資料によれば、小代区(おじろく)の城山城跡において一揆勢が立て籠もり、羽柴軍に対して激しい抵抗運動(小代一揆)を展開しました。
険しい地形を熟知した地元勢力の反発は根強く、一度の侵攻だけで但馬全土を掌握することは不可能でした。
🏯 【天正8年】第二次但馬攻めと主要拠点の陥落
第一次侵攻から3年後の天正8年(1580年)、羽柴軍は再び但馬攻略に本腰を入れます。
この「第二次但馬攻め」によって、但馬の勢力図は決定的に塗り替えられることになります。
毛利氏の暗躍と再侵攻の決断
但馬の国人領主たちの中には、強力な毛利氏の支援と調略を受けて反抗の機会をうかがう者も少なくありませんでした。
秀吉は播磨方面での戦局を有利に進めつつ、背後の脅威を取り除くため、再び但馬の主要拠点に対する制圧行動を決断したのです。
有子山城の落城と山名氏による広域支配の終焉
天正8年の侵攻において、但馬守護・山名氏の本拠地である「有子山城(ありこやまじょう)」に羽柴軍が迫ります。
文化遺産オンライン等の資料によれば、秀長の侵入により城主であった山名氏政は因幡へ出奔しました。また、山名佑豊(やまなすけとよ)もこの時期に病没したとされ、室町時代から続いた山名氏による但馬の広域支配は終焉を迎えました。
ただし、山名氏の系統自体はのちに村岡山名氏として近世にも存続しており、一族が完全に滅亡したわけではありません。
複数城郭の陥落と朝来郡域における戦禍の記録
この時期の羽柴軍による侵攻は、地域に深い爪痕を残しました。
朝来市の歴史文化基本構想によれば、朝来郡域に存在した在地首領の城館跡52か所のうち、18城が羽柴軍の侵攻によって陥落したとされています。
永禄期の戦禍も含め、長年にわたる戦国大名の侵攻により、中世から続いた在地勢力は大きな打撃を受けました。
| 項目 | 第一次但馬攻め (天正5年頃) | 第二次但馬攻め (天正8年頃) |
|---|---|---|
| 主な動向 | 秀長が但馬へ侵攻、南但馬の要衝へ進出 | 有子山城など但馬の主要拠点を制圧 |
| 主要な攻略目標 | 竹田城周辺など | 有子山城(山名氏の本拠)、出石周辺 |
| 戦局の結果 | 竹田城を羽柴方の拠点とし始めるが、平定には至らず | 山名氏の広域支配終焉、主要拠点が織豊方に入る |
🌟 但馬攻めにおける羽柴秀長の役割と台頭
この但馬攻めの史実を語る上で欠かせないのが、弟・羽柴秀長の存在です。
彼はこの戦役を通じて、歴史の表舞台で重要な役割を担う武将として成長していきました。
秀吉の補佐から但馬攻略の要衝を任される武将へ
秀長は兄・秀吉の補佐として活躍していましたが、但馬攻めにおいては一部隊を率いて攻略の主力を担いました。
戦況を見極めながら軍事行動を指揮し、但馬の主要拠点を織豊方の勢力下に組み込む過程で、将としての確かな実績を積み上げていきました。
竹田城を拠点とした統治体制と銀山管理への関与
秀長の真価は、戦いだけでなくその後の統治や管理体制の構築にもありました。
秀長は竹田城を拠点として但馬の地域支配に関与し、生野銀山周辺の管理や治安維持に重要な役割を果たしたと考えられています。
戦乱で荒れた地域を安定させ、資源を有効に活用する基盤を整える手腕が発揮されました。
近年の歴史書に見る「もう一人の天下人」という視点
近年の一般向け歴史書や研究者の解説において、秀長の功績に光が当てられることが増えています。
自らの軍略と政治力で但馬の重要拠点を制圧し、政権の経済基盤を支えた実績から、「もう一人の天下人」という新たな秀長像も提示されています。
彼の実務能力が豊臣政権の屋台骨を支えたことは間違いありません。
⚠️ 但馬攻略で羽柴軍が直面した史実上の苦難
羽柴軍が勝利を重ねた但馬攻めですが、実際には在地勢力の抵抗により多くの苦難を伴う過酷な作戦でした。
険しい地形を生かした終わりのないゲリラ戦
但馬国はその面積の大半を山地が占めており、大軍を展開するには不向きな地形でした。
在地領主たちはこの地の利を最大限に生かし、山城に拠点を置いたり、狭い峠道を利用したゲリラ戦を展開しました。
羽柴軍は地理的不利を克服しながら、各個撃破と兵站の維持に細心の注意を払う必要がありました。
後世の名将・藤堂高虎も苦戦した最前線の緊張
史料によれば、後世に築城の名手など名将として知られる藤堂高虎(とうどうたかとら)も、この戦役に従軍していました。
香美町の資料には、小代一揆勢が城山城跡に立て籠もり、秀吉配下の藤堂高虎を撃退・追撃したという記録が残されています。
のちの名将でさえ苦闘するほど、最前線の軍事的緊張は高かったことがわかります。
天正9年まで続いた残党の抵抗と秀吉自らの出陣
天正8年に有子山城などの主要拠点が制圧された後も、但馬が「完全平定」されたわけではありません。
小代や兎塚などの一揆勢による抵抗はその後も続き、天正9年(1581年)には秀吉自らが出陣して殲滅にあたったと伝えられています。
領地の維持と治安の回復には、膨大な年月と軍事的な労力が注ぎ込まれました。
🏗️ 織豊政権による但馬平定後の統治と都市基盤整備
戦火が収まった後、織豊政権による新たな但馬統治が始まりました。
それは支配者の交代にとどまらず、地域の姿を中世から近世へと根本的に作り変える都市基盤整備の始まりでもありました。
宮部継潤による城郭改修と新たな拠点作り
有子山城の制圧後、この地域に入った武将のひとりが宮部継潤(みやべけいじゅん)です。
彼は古い山城を利用しつつ、地域の新たな拠点として城郭の整備や防衛機能の再構築を進めました。
軍事拠点としての役割だけでなく、統治の核としての機能強化が図られました。
城崎から「豊岡」への改名と城下町の基礎構築
現在の豊岡市の基礎となる整備もこの時期に進展しました。
豊岡市の資料によれば、宮部継潤が木崎(城崎)に入って「豊岡城」と名前を改めたとされ、現在の豊岡の町の基礎となる城下町整備が進んだと説明されています。
地域の中心地が再編され、近世城下町へと発展していく土台が築かれました。
中世城館から織豊期の城郭への歴史的な移行プロセス
但馬攻めの歴史的意義は、数百年にわたって根付いていた中世在地領主の支配体制が終わりを告げたことです。
- 土塁や堀を中心とした小規模な中世城館群の機能低下
- 織豊政権の支配を象徴する新たな城郭整備の開始
- 広域支配に基づく新たな政治・経済体制の構築
これらは、新しい時代の到来を地域社会に決定づけるプロセスでした。
| 城郭名 | 戦役における役割と結果 | 平定後の変化と現在の史跡価値 |
|---|---|---|
| 竹田城 | 但馬攻略の過程で羽柴方の重要拠点となる。 | 現存する壮大な石垣は主に後の赤松広秀期に整備されたとされる。 |
| 有子山城 | 天正8年に城主が退去し、山名氏の広域支配が終わる。 | 織豊期のいずれかの大名による石垣遺構が残る国指定史跡。 |
| 城山城 | 小代一揆の拠点として激しい抵抗の舞台となった。 | 中世山城の遺構として地元の文化財調査対象。 |
📺 ドラマ視聴必見!但馬攻めをより深く楽しむ史実の視点
最後に、歴史エンターテインメント作品を楽しむ上で、本記事で解説した史実をどのように活かせばよいのか、その視点をご紹介します。
ドラマ演出と史実における過酷な戦局の違いを味わう
映像作品においては、時間の都合やドラマティックな演出のため、数年がかりで行われた但馬攻めがテンポ良く描かれたり、複雑な在地勢力の動向が省略されたりすることがあります。
しかし、「史実では天正9年まで一揆勢の抵抗が続く過酷な戦いであった」という事実を知っておくことで、登場人物たちが背負っていたプレッシャーの大きさをより深く想像でき、作品を多角的に楽しむことができます。
史跡巡り:天空の城・竹田城跡と有子山城跡の現在
羽柴軍が駆け抜けた歴史の舞台は、現在も兵庫県北部にその痕跡を残しています。
特に竹田城跡(朝来市公式ホームページ)は「天空の城」として有名であり、後の赤松広秀期に整備されたとされる壮大な石垣を見ることができます。
史実を学んだ上で現地を訪れれば、単なる絶景スポットではなく、戦国から近世へと移り変わる歴史の証人として目に映るはずです。
豊臣兄弟の連携と但馬攻めが歴史に与えた影響まとめ
豊臣兄弟の但馬攻めは、単に領土を広げただけの戦いではありません。
秀吉が中国攻めの全体戦略を描き、秀長が最前線での困難な制圧戦と統治の基盤作りに尽力するという、兄弟の連携が歴史を動かした重要な局面でした。
この戦役を通じて培われた彼らの経験と実績こそが、のちの豊臣政権の屋台骨を支え、天下統一への道を切り開く確かな礎となったと言えるでしょう。
※本記事は、文化庁の資料や朝来市・香美町・豊岡市等の公式見解、および歴史学の定説に基づく史実を中心に構成しています。