逆賊と呼ばれた男の真実:小栗上野介とは? 大河ドラマ「逆賊の幕臣」で描かれる幕末の先駆者
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「幕末の日本を近代化に導いたのは、西郷隆盛や坂本龍馬だけではない…」
2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」は、そんな歴史の陰に隠れた英雄、小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の生涯を描きます。
主演は松坂桃李さん。
日本の近代化に大きく貢献しながら、なぜ彼は「逆賊」と呼ばれなければならなかったのか?
本記事では、知られざる小栗上野介の真実と、大河ドラマの見どころに迫ります!
小栗上野介:時代の先を行きすぎた男
小栗上野介は、1827年(文政10年)に江戸で生まれました。
父は幕臣の小栗忠高。
幼少期から学問に秀で、昌平坂学問所で学び、優秀な成績を修めました。
剣術の腕も立ち、直心影流の免許皆伝を得ています。
若くしてその才能は周囲に知られ、将来を嘱望されていました。
1844年(弘化元年)に家督を相続。
その後、順調に出世を重ね、勘定奉行、外国奉行、陸軍奉行、海軍奉行など、幕府の要職を歴任。
その能力は、大老・井伊直弼にも認められるほどでした。
小栗の冷静沈着な性格と、合理的な思考は、幕府内でも異彩を放っていたと言えるでしょう。
遣米使節:アメリカで見た未来
1860年(万延元年)、小栗上野介は日米修好通商条約の批准のため、遣米使節団の一員としてアメリカへ渡ります。
正使は新見正興、副使は村垣範正、そして監察が小栗上野介でした。
一行はアメリカ海軍の軍艦ポーハタン号で太平洋を横断。
サンフランシスコに到着後、ワシントンD.C.で大統領ブキャナンに謁見し、条約を批准しました。
蒸気船、鉄道、工場…当時の日本人にとって、アメリカの文明は驚きの連続でした。
小栗上野介は、ワシントン海軍工廠やフィラデルフィア造幣局などを見学し、その技術力の高さに圧倒されました。
また、アメリカの民主主義的な政治体制や、自由な経済活動にも感銘を受けたと言われています。
使節団の中では、勝海舟や福沢諭吉らとも交流を深めました。
特に勝海舟とは、互いの才能を認め合い、ライバル関係にあったとも言われています。
福沢諭吉は、小栗上野介の冷静沈着な態度と、鋭い観察眼に感心したという記録を残しています。
小栗上野介は、この経験から「日本も変わらなければならない」と強く感じたことでしょう。
彼は、アメリカで見聞きしたことを詳細に記録し、帰国後の改革に活かそうとしました。
日本の近代化を推進:小栗上野介の主な功績
帰国後、小栗上野介は、アメリカで得た知識をもとに、日本の近代化に向けた改革を次々と打ち出します。
- 横須賀製鉄所(造船所)の建設: 日本の近代工業化の第一歩となる施設。当時、幕府は海軍力の増強を急務としており、西洋式の軍艦を自国で建造する必要がありました。小栗上野介は、フランス人技師ヴェルニーを招聘し、彼の協力を得て、横須賀に製鉄所を建設することを決断します。
ヴェルニーは、フランス海軍の技術将校で、日本での製鉄所建設に情熱を燃やしていました。
小栗上野介は、ヴェルニーの才能と熱意を見抜き、彼を全面的に信頼して計画を推進。
1865年(慶応元年)に起工した横須賀製鉄所は、単なる造船所ではなく、製鉄から、機械製造、兵器製造までを一貫して行える、当時としては東洋一の規模と設備を誇る一大拠点となりました。
これは、日本の重工業発展の礎となり、後の富国強兵政策に大きく貢献しました。
- 軍制改革: それまでの日本の武士中心の軍隊から、フランス式の近代的な軍隊への転換を図りました。小栗上野介は、幕府陸軍の近代化が急務であると考え、当時、世界最強と言われたフランス陸軍の軍制を導入することを決断します。
具体的には、歩兵、騎兵、砲兵を組み合わせた三兵戦術を導入し、装備も西洋式のものに更新しました。
また、フランスから軍事顧問団を招き、兵士の訓練や、軍事技術の指導を行わせました。
しかし、この改革は、旧来の武士階級からの反発を招き、小栗上野介の立場を危うくする一因にもなりました。
- 財政改革: 幕府の財政は、長年の支出過多と、開国による経済の混乱により、危機的な状況にありました。小栗上野介は、勘定奉行として、この難局に立ち向かいました。
具体的な政策としては、貨幣の改鋳や、日本初の兌換紙幣の発行、さらには関税交渉にも取り組みました。
また、支出を削減するために、幕府の組織改革や、人員整理も断行しました。
しかし、これらの改革は、既得権益を持つ人々からの反発を招き、十分な成果を上げることができませんでした。
- 株式会社組織の導入: 小栗上野介は、アメリカで見た株式会社の仕組みに強い関心を持ち、日本にも導入しようとしました。彼は、貿易会社の設立を計画し、出資者を募りました。これは、当時の日本にはなかった画期的な発想であり、日本の資本主義経済の発展に先鞭をつけるものでした。
- その他の先駆的な政策: 江戸と横浜を結ぶ鉄道の建設、郵便制度の創設、全国を統一的に治めるための郡県制の提案など、明治政府が後に実現することになる多くの政策を、小栗上野介はすでに構想していました。
これらの功績は高く評価されており、大隈重信が「明治政府の近代化政策は、小栗の政策を模倣したものだ」と評したというエピソードも残されています。
なぜ「逆賊」?小栗上野介の悲劇
しかし、小栗上野介の進歩的な改革は、幕府内の保守派や、時代の変化を恐れる人々からの反発を招きます。
大政奉還後、徳川慶喜は新政府に恭順の姿勢を示しますが、小栗上野介はあくまでも徹底抗戦を主張しました。
「徳川の世を守る」という強い信念を持っていた小栗上野介にとって、恭順は受け入れがたい選択だったのでしょう。
彼は、幕府の再興を信じ、新政府軍との戦いを続けることを決意します。
しかし、この姿勢が、彼を「逆賊」とする理由となってしまいます。
小栗上野介の行動原理は、「徳川家への忠義」と「日本の将来を憂う心」にあったと言えるでしょう。
彼は、新政府が欧米列強の圧力に屈し、日本が植民地化されることを恐れていました。
そのため、徹底抗戦によって、幕府の力を示し、新政府との交渉を有利に進めようと考えていたのです。
しかし、時代の流れは、すでに小栗上野介の思いとは異なる方向に進んでいました。
1868年(慶応4年)、小栗上野介は新政府軍に捕らえられ、群馬県高崎市倉渕町権田の烏川原で処刑されます。
十分な取り調べも、弁明の機会も与えられないままの、あまりにも早すぎる死でした。
享年42歳。
小栗上野介の処刑は、新政府による「見せしめ」の意味合いが強かったと言われています。
新政府は、小栗上野介を「逆賊」として処刑することで、旧幕府勢力に対する抑止力とし、新政府の権威を示そうとしたのです。
小栗上野介の墓と遺骨、そして子孫
小栗上野介の墓は、処刑地の近く、群馬県高崎市倉渕町の東善寺にあります。
処刑後、村人によって密かに埋葬されたと伝えられています。
明治時代になり、小栗上野介の功績が見直されると、東善寺には多くの人々が墓参に訪れるようになりました。
東京都の雑司ヶ谷霊園にも小栗家の墓がありますが、こちらは供養のための墓と考えられています。
遺骨は現在、群馬県の東善寺に安置されているとされています。
小栗上野介の子孫には、漫画家の小栗かずまた氏(代表作『花さか天使テンテンくん』)がいます。
小栗かずまた氏は、自身のブログやTwitter(現:X)で、曽祖父である小栗上野介について発信しています。
また、親戚には元格闘家の武蔵氏もいます。
2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」:何が描かれるのか?
2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」は、松坂桃李さん主演で、小栗上野介の波乱に満ちた生涯を描きます。
脚本は、『きのう何食べた?』『おかえりモネ』などを手がけた安達奈緒子さん。
ドラマでは、これまであまり語られてこなかった幕末の「裏側」に光を当て、小栗上野介が「逆賊」と呼ばれた真相を明らかにします。
「歴史は勝者によって作られる」と言われますが、このドラマは、敗者とされた側の視点から幕末を描くことで、私たちに新たな歴史観を提示してくれるでしょう。
明治政府による再評価とゆかりの地
明治時代になると、小栗上野介の先見性や、近代化への貢献が再評価されるようになります。
特に、横須賀製鉄所の建設は、日本の重工業発展の基礎となったことから、高く評価されています。
小栗上野介ゆかりの地としては、処刑地に近い東善寺(群馬県高崎市倉渕町)や、埋葬されたと伝えられる普門院(埼玉県さいたま市)のほか、横須賀製鉄所跡地(神奈川県横須賀市)などがあります。
横須賀製鉄所は、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部や米海軍横須賀基地の一部となっていますが、一部の遺構は見学することができます。
また、横須賀市には、ヴェルニーと小栗上野介の功績を記念したヴェルニー公園もあります。
まとめ:小栗上野介の再評価と大河ドラマへの期待
小栗上野介は、幕末という激動の時代に、日本の未来を見据え、近代化に力を尽くした人物でした。
しかし、時代の流れに翻弄され、「逆賊」として悲劇的な最期を遂げました。
2027年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」は、彼の功績と真実の姿を明らかにし、私たちに歴史の新しい一面を見せてくれるに違いありません。
あなたも、このドラマを通して、小栗上野介という人物の魅力に触れてみませんか?