北ノ庄城の天守は何層?「9層」説の根拠と発掘で分かったこと

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北ノ庄城(きたのしょうじょう)の天守は、一般に「9層」だったと紹介されています。
その根拠は後世の伝説だけではありません。
『福井県史』が紹介する『毛利家文書』には、羽柴秀吉が北庄城について、石蔵を高く築いた上に天守を「九重」に上げていたと記したことが確認できます。
ただし、ここで大切なのは、「九重という同時代史料がある」ことと、「発掘で9階建ての天守が確認された」ことは別だという点です。
福井市の発掘調査では、堀や石垣の根石、曲輪、土橋など勝家期の北庄城を示す遺構が見つかっていますが、天守の9層構造そのものが考古学的に確認されたわけではありません。
- 北ノ庄城の天守が「9層」といわれる根拠
- 秀吉の記録に残る「九重」をどう読むべきか
- 安土城の「7層」と単純比較できない理由
- ルイス・フロイスが見た北庄城の特徴
- 発掘調査で実際に確認されたもの
- 勝家の北庄城と後世の福井城の違い
- 現在の資料から分かること、まだ断定できないこと
🏯 北ノ庄城の天守は何層?まず結論
現在の福井市は、柴田勝家(しばたかついえ)の北庄城について、織田信長の安土城天守7層をしのぐ「9層の天守閣」をもつ日本最大級の城だったと記録に残る、と案内しています。
一方、より研究寄りの説明を見ると、福井市立郷土歴史博物館は2025年の北庄築城450年記念特別展で、天守を「『九重』ともいわれる高層建築」と表現しています。
観光案内の「9層」と、研究・展示側の「九重ともいわれる」という書き方には少し温度差があります。
史料には「九重」と記されている
北ノ庄城9層説の中心的な根拠は、羽柴秀吉が北庄城について記した『毛利家文書』です。
『福井県史』は、勝家が数年をかけて築いた北庄城について、石蔵、つまり天守台を高く築き、その上に天守を九重に上げていたと秀吉が記していることを紹介しています。
「9層」は現代の説明ですが、その元になる「九重」という表現は勝家の時代に近い史料までさかのぼります。
そのため、単なる観光用の数字と片づけるのも適切ではありません。
9層と「9階建て」は同じ意味とは限らない
一方で、九重という言葉を、そのまま現代建築の「9階建て」と置き換えるのは慎重であるべきです。
城郭では外観上の「重」と内部の「階」が一致しない例があり、北ノ庄城については各階の平面図や詳細な設計図が残っているわけでもありません。
記事で安全に言えるのは「九重と記録され、現在は9層と紹介されている」までです。
正確な内部階数や高さまで確定したと書くのは、現在確認できる資料の範囲を超えます。
| 根拠 | 確認できること | 確認できないこと |
|---|---|---|
| 秀吉の記録 | 天守を「九重」と記す | 正確な高さ・各階平面 |
| 福井市公式 | 「9層の天守閣」と紹介 | 実測による高さ |
| 発掘調査 | 堀・石垣・曲輪など | 天守9層の上部構造 |
「9層説には史料的根拠がある」と「9層の建物構造が発掘で証明された」は同じではありません。この2つを分けると、北ノ庄城の実像がかなり見やすくなります。
📜 「9層」説の根拠は秀吉の記録にある
『福井県史』が紹介する『毛利家文書』
『福井県史』通史編3の「北庄城の建設」は、北庄城を知るうえで重要な公的資料です。
そこでは、天正11年の賤ケ岳合戦の後、勝家を北庄城に囲んだ羽柴秀吉が、北庄城は勝家が数年かけて築いた城であり、高い石蔵の上に天守を九重に上げていたと記したことが紹介されています。
つまり「九重」は、北庄城が失われてから何百年も後に突然現れた話ではありません。
城が存在した時代に近い文書に記された情報である点が大きな意味を持ちます。
原文を確認したい場合は、福井県文書館・図書館の『福井県史』「北庄城の建設」が参考になります。
それでも「完全復元」には足りない
史料の価値が高いことと、建物の全貌が分かることは別問題です。
九重という記録からは、少なくとも非常に高層の天守として認識されていたことがうかがえますが、具体的な階高や屋根の配置、内部の部屋構成までは分かりません。
- 天守の正確な高さ
- 各重・各階の平面構成
- 破風や屋根の完全な配置
- 最上部の具体的な形
- 安土城との高さの差
こうした数値や形を断定するには、現在確認できる史料だけでは不足しています。
復元模型やイラストを見る場合も、「当時の写真」のように受け取らない方がよいでしょう。
⚖️ 安土城7層より北ノ庄城9層の方が大きかった?
福井市は「安土城天守7層をしのぐ」と案内
福井市の公式ページでは、北庄城について「織田信長の安土城天守(7層)をしのぐ、9層の天守閣をもつ日本最大級の城だった」と説明しています。
北ノ庄城の規模感をつかむうえでは、とても分かりやすい比較です。
したがって「福井市は安土城7層をしのぐ9層と紹介している」と書くことはできます。
ただし、ここから「北ノ庄城の方が必ず物理的に高かった」と一段進めて断定するのは別です。
層数と建物の高さは同じ尺度ではない
城の「重」「階」「層」は、現代の高層ビルの階数のように単純な比較指標ではありません。
同じ5階でも一層ごとの高さが違えば建物全体の高さは変わりますし、城郭では外観上の重なりと内部階数が異なる場合もあります。
北ノ庄城については実測できる現存天守がなく、安土城も天守そのものは現存しません。
そのため、7対9という数字だけから高さの優劣まで計算することはできません。
| 比較ポイント | 北ノ庄城 | 安土城 |
|---|---|---|
| 公的案内上の表現 | 9層 | 7層 |
| 北ノ庄城側の史料表現 | 「九重」 | - |
| 天守建物 | 現存しない | 現存しない |
| 高さの単純比較 | 層数だけでは判断できない | |
「9層だから安土城より2階高い」と読むより、「同時代に九重と記録されるほどの高層天守だった」と理解する方が、史料の範囲に忠実です。
👀 ルイス・フロイスが見た北庄城はどんな城?
1580年にも大きな工事が続いていた
北庄城を知る手掛かりは秀吉の記録だけではありません。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、天正8年(1580年)5月18日に北庄城の柴田勝家を訪ねています。
『福井県史』によると、フロイスは立派な城で大きな工事が行われていることを報告しました。
北庄城は1575年に築城が始まったとされるため、数年をかけて城と城下の整備が続いていた様子が分かります。
フロイスの記録は「九重」とは別ルートから、北庄城が大規模な建設事業だったことを示す材料になります。
フロイスが驚いた「石で葺いた屋根」
さらに『福井県史』は、フロイスが城やその他の家の屋根が立派な石で葺かれていることに強い印象を受けた、と紹介しています。
勝家の敗死を伝えた後の書簡でも、屋根に使われた石の滑らかさや形について触れています。
福井周辺には笏谷石(しゃくだにいし)という著名な石材があり、勝家と笏谷石との関係を示す情報もあります。
ただ、フロイスの「石葺き」という記録だけを根拠に、北庄城の屋根石がすべて笏谷石だったと断定するのは避けるべきです。
🕰️ 北ノ庄城はいつ造られ、いつ失われた?
1575年、越前支配の拠点として築城が始まる
天正3年(1575年)、織田信長は越前国支配の拠点を北庄に定め、柴田勝家を城主としました。
福井市立郷土歴史博物館も、2025年の北庄築城450年記念特別展で、この1575年を北庄築城の起点として示しています。
北ノ庄城は、単に勝家が暮らす館ではなく、越前支配と城下町形成の中心となる城として整備されました。
福井市は現在の福井市街の発展を考えるうえでも北庄城を重要な起点と位置づけています。
1583年、賤ケ岳敗戦後に北庄城が落城
本能寺の変後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立は深まり、天正11年(1583年)の賤ケ岳の戦いで勝家側が敗れます。
勝家は北庄へ退却し、秀吉軍に攻められた北庄城で妻のお市とともに最期を迎えました。
この記事では人物の最期そのものには深入りしません。
重要なのは、勝家期の北庄城が1575年の築城開始から1583年の落城まで、比較的短期間のうちに大規模な城郭として整備されたという点です。
| 時期 | 北ノ庄城をめぐる動き |
|---|---|
| 1575年 | 柴田勝家が北庄で築城・城下整備を開始 |
| 1580年 | フロイスが北庄城を訪問。大きな工事と石葺き屋根を記録 |
| 1583年 | 賤ケ岳後に北庄城が落城。秀吉の記録に「九重」 |
| 1601年以降 | 結城秀康が勝家の北庄城を大幅に改修 |
| 1993年度以降 | 福井市が発掘調査を実施し、勝家期北庄城の遺構を確認 |
⛏️ 発掘調査で北ノ庄城の何が分かった?
約25mの堀と石垣の根石が見つかった
北庄城は長い間、文献や伝承を中心に語られてきました。
福井市は柴田神社の建設や北の庄城址・柴田公園の整備を契機に、平成5年度から6回の発掘調査を実施しています。
福井市公式によると、確認された堀は幅約25mで北へ延び、護岸していた石垣は福井城築城時の破壊を受けながらも、南側と西側に最下部の根石が残っていました。
発掘によって、それまで文献や伝承で語られてきた北庄城の存在が考古学的にも確認されたことが大きな成果です。
曲輪・土橋・陶磁器なども確認
発掘成果は堀だけではありません。
福井市は、堀によって区切られた曲輪(くるわ)と、その曲輪を結ぶ土橋も確認しています。
堀からは16世紀後半の越前焼の擂り鉢や甕、陶磁器、古銭、焼けた土壁なども見つかりました。
- 幅約25mの堀
- 石垣の最下部に残った根石
- 北と南の曲輪
- 曲輪を結ぶ土橋
- 16世紀後半の越前焼・陶磁器
- 古銭や焼けた土壁
これらは「城が確かに存在した」という考古学的証拠ですが、天守の上部構造を直接示すものではありません。
発掘で「9層」が証明されたわけではない
ここが北ノ庄城を調べるうえで最も誤解しやすい部分です。
発掘調査で北庄城そのものの遺構が確認されたからといって、九重の天守まで地中からそのまま出てきたわけではありません。
発掘で確認されたのは主として堀、石垣、道路・曲輪など地中に残りやすい施設です。
失われた天守の上部構造については、秀吉の文書やフロイスの記録など文献史料に頼る部分が大きくなります。
「北庄城の存在が発掘で確認された」は正しい一方、「9層の天守が発掘で証明された」とするのは行き過ぎです。文献史料と考古学的成果は、それぞれ何を証明するのかを分けて読む必要があります。
📍 北ノ庄城の天守はどこにあった?
現在の柴田神社付近に比定される
『福井県史』は、近世の「越藩拾遺録」や「柴田勝家始末記」などが、近世福井城の漆門南側の升形を天守跡としていることを紹介し、現在の福井市柴田神社の地に比定しています。
現在の北の庄城址・柴田公園と柴田神社周辺は、勝家期北庄城の中心部を考えるうえで重要な場所です。
ただし、公園の範囲だけが当時の城域全体だったという意味ではありません。
福井城の築城で遺構は大きく改変された
福井市の発掘成果では、勝家期の北庄城の遺構が、徳川期に結城秀康(ゆうきひでやす)が福井城を築く際に大胆に改変された様子も確認されています。
そのため、現在見える城郭景観や地中の遺構をすべて「柴田勝家時代の姿」と考えることはできません。
同じ場所に異なる時代の城郭が重なっていることが、北庄城を難しくも面白くしている点です。
🏰 柴田勝家の北庄城と結城秀康の福井城は別物
勝家期は「九重」と記録される
勝家期の北庄城について、天守の高さを具体的に伝える中心資料は「九重」と記された秀吉の記録です。
北庄城は1583年に落城し、その後も北庄の城主は交代していきました。
ここでいう「九重」は、柴田勝家が築いた北庄城についての情報です。
後世の福井城天守の階数と混ぜないようにする必要があります。
結城秀康期は外観四重・内部五階
福井県文書館は、2026年の企画展示「福井城と諸国の城」で、結城秀康が柴田勝家の北庄城を68万石の大藩にふさわしい城へ大幅に改修したと説明しています。
慶長11年(1606年)に完成した城には、外観四重・内部五階の天守があり、本丸を五重の堀が同心円状に囲む巨大な縄張だったとされています。
つまり、検索中に「北庄城は四重五階」という情報を見かけても、それだけで勝家の九重天守説が否定されるわけではありません。
時代と城主を確認する必要があります。
「北庄」「福居」「福井」という名称変化にも注意
福井県文書館によると、結城秀康時代にも城は「北庄」と呼ばれ、その後1624年に「福居庄(福居)」へ改められ、現在の「福井」になるのは1701年とされています。
同じ場所と「北庄」という名称が時代をまたいで使われるため、勝家期と秀康期の城が検索結果で混ざりやすいのです。
| 項目 | 柴田勝家期 | 結城秀康期 |
|---|---|---|
| 主な時期 | 1575~1583年 | 1601年以降 |
| 天守 | 「九重」とする記録 | 外観四重・内部五階 |
| 主な根拠 | 秀吉の記録、フロイス、発掘 | 文書・絵図・遺構 |
| 位置関係 | 現在の福井市中心部 | 勝家期の城を大幅改修 |
🔎 北ノ庄城9層説で分かること・まだ分からないこと
かなり確度高く言えること
ここまでの公的資料を横断すると、北ノ庄城については「9層かどうか何も分からない」という状態ではありません。
少なくとも次の点は、根拠を示しながら説明できます。
- 1575年に柴田勝家の北庄築城が始まった
- 1580年にフロイスが北庄城を訪れ、大きな工事を記録した
- フロイスは石葺きの屋根にも注目した
- 秀吉の記録に天守を「九重」とする記述がある
- 福井市は現在「9層の天守閣」と案内している
- 発掘で勝家期北庄城の堀や石垣などが確認されている
したがって「北ノ庄城9層説には根拠がない」という理解は適切ではありません。
文献史料と考古学的成果の両方から、非常に大規模な城だったことを考える材料がそろっています。
現時点では断定できないこと
その一方で、資料から読み取れる範囲を越えて具体化しすぎると、史実と推定が混ざってしまいます。
次の点は、確定事項として扱わない方が安全です。
- 天守の正確な高さをメートルで示すこと
- 九重を現代的な意味で正確に9階と断定すること
- 各階の間取りや用途
- 屋根や破風の完全な配置
- 安土城より物理的に何メートル高かったか
- 復元模型と実物の外観が完全に一致すること
- 屋根石のすべてを笏谷石と断定すること
「九重という史料はある。 しかし天守の完全な設計図はない」という二段構えで理解するのが重要です。
答えは「9層とされる。ただし証拠の種類を分けて考える」
「北ノ庄城の天守は何層だったのか」と聞かれたら、最も簡潔な答えは「同時代に近い史料では九重と記され、現在の福井市は9層と紹介している」です。
そのうえで、発掘調査は9層の天守そのものではなく、北庄城の堀や石垣、曲輪などを確認したものだと付け加えれば、現在分かっている範囲をかなり正確に伝えられます。
- 北ノ庄城の天守は「九重」とする史料があり、福井市は9層と紹介している
- 9層説は後世の伝説だけではなく、秀吉の記録までさかのぼる
- フロイスの記録からも大規模な城づくりと石葺き屋根が確認できる
- 発掘で堀・石垣などは確認されたが、天守9層の上部構造そのものは確認されていない
- 安土城との比較は「7層対9層」だけで物理的な高さまで断定しない
- 勝家期の北庄城と、結城秀康が改修した後世の福井城は分けて考える
北ノ庄城の9層説は、単純に「本当」「伝説」と二分するより、秀吉の文書、フロイスの記録、発掘成果がそれぞれ何を示しているのかを分けて読むことで、ずっと正確に理解できます。