北ノ庄城の発掘で見つかった遺構は?堀・石垣と天守の証拠を整理

   

北ノ庄城の発掘遺構と石垣を描いたイラスト

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北ノ庄城(きたのしょうじょう)は、天守や門がそのまま残る城ではありません。

しかし「遺構が何も残っていない城」でもありません。

福井市が1993年度(平成5年度)から行った発掘調査では、幅約25mの堀、石垣の最下段にあたる根石、曲輪、土橋、城内へ向かう道など、柴田勝家の北庄城に関係する遺構が確認されています。

さらに堀からは16世紀後半の越前焼、陶磁器、古銭、焼けた土壁なども出土しました。

2017年には別地点の調査で、以前確認された堀がさらに南へ延びていた可能性も示されています。

一方、「発掘によって9層天守まで証明された」と考えるのは行き過ぎです。

この記事では、発掘で確認済みのこと、発掘成果から推定できること、文献・伝承の範囲にとどまることを分けながら、北ノ庄城の実像を整理します。

この記事で分かること

  • 北ノ庄城の発掘で実際に見つかった遺構
  • 約25mの堀と石垣の根石が示すこと
  • 曲輪・土橋・進入路から分かる防御構造
  • 2017年の追加調査で分かったこと
  • 9層天守と発掘成果をどう区別すべきか

🏯 北ノ庄城は「建物」ではなく遺構が残っている

天守や門は現存していない

「北ノ庄城は今も残っていますか」と聞かれた場合、答え方には少し注意が必要です。

柴田勝家の時代の天守、門、櫓といった建築物は現存していません。 一方、地中には勝家期の北庄城に関係すると考えられる遺構が残っていました

現在の北の庄城址・柴田公園は、その一部が考古学的発掘で確認された場所の上に整備されています。

したがって「城がそのまま残っている」でも「何も残っていない」でもなく、発掘された城郭遺構を見る史跡と考えると分かりやすいでしょう。

対象 現在確認できる状態
戦国期の天守・門 建築物としては現存しない
発掘で確認
石垣 最下段の根石などを確認
曲輪 発掘で区画を確認
土橋 曲輪間を結ぶ構造を確認
9層天守の上部構造 発掘では未確認

1993年度から6回の発掘で大きく状況が変わった

北庄城は、長い間、文献資料や伝承を中心に語られてきました。

転機となったのが柴田神社の建設工事や北の庄城址・柴田公園の整備です。

福井市は平成5年度、つまり1993年度から6回にわたって発掘調査を行いました。

福井市はこの成果について、それまで文献資料や伝承で語られてきた北庄城を、発掘によって初めて考古学的に確認したという趣旨で説明しています。

つまり発掘の最大の成果は、「9層だったか7層だったか」を決めたことではありません。

柴田勝家期の大規模な城郭施設が実際にこの場所へ存在していたことを、地中の遺構から確認できたことにあります。

⛏️ 発掘された代表的な遺構は堀・石垣・曲輪・土橋

幅約25mの大規模な堀

北ノ庄城の発掘成果の中で、規模を数字でイメージしやすいのが堀です。

福井市が確認した堀は幅約25mで、北へ向かって延びていました

一般的な屋敷の境界溝とは比べものにならない規模で、城郭の防御線の一部と考えられています。

ただし、約25mという数字から北ノ庄城全体の大きさを逆算することはできません。

確認されたのは巨大な城郭の一部分であり、縄張り全体が発掘済みになったわけではないからです。

石垣は上部ではなく最下段の「根石」が残った

堀には石垣が伴っていました。

発掘では堀の南側と西側で、石垣の一番下にあたる根石が確認されています

本来は何段も積まれていたと考えられますが、後の福井城築城に伴って上部が取り除かれたと福井市は説明しています。

ここが重要

「発掘で石垣が出た」ことと、「勝家時代の高い石垣が地上にそのまま残っている」ことは同じではありません。確認された中心は最下段の根石です。

曲輪と土橋まで確認されている

堀だけが単独で見つかったわけでもありません。

堀によって分けられた北側・南側の曲輪と、その曲輪をつなぐ土橋も確認されました

曲輪とは、堀や土塁、石垣などで区画された城内の空間です。

土橋は堀を完全に掘り切らず、通路として土を残した部分を指します。

発掘遺構 読み取れること
約25mの堀 大規模な防御施設が存在した
石垣の根石 堀岸が石垣で整備されていた
北・南の曲輪 城内が複数の空間に区画されていた
土橋 堀を越えて曲輪間を移動する経路があった
進入路 城内へ直線的に入らせない工夫があった

🛡️ 発掘から北ノ庄城の防御構造も見えてきた

城内への道はまっすぐではなかった

発掘成果が面白いのは、遺構の有無だけでなく、人が城へどう入ったのかまで推定できるところです。

福井市によると、南側の曲輪から堀を渡った道は、互い違いに配置された高石垣の間を曲がりながら城内へ入る構造でした。

南側から侵入した敵が、そのまま一直線に城内へ突入できないようにした防御的な導線と考えられています

手前の石垣が視界を遮るため南から門を直接見通しにくく、奥側には迎撃を意識した構造もあったとされています。

川と堀を組み合わせた城だった可能性

福井市は、吉野川、のちの百間堀と確認された堀を組み合わせ、東側を守る城郭構造だった可能性も示しています。

ただし、これを北ノ庄城全域の完成した縄張り図と同じように扱うことはできません

発掘で確認できた地点は限定されており、城全体の範囲はなお十分に分かっていないためです。

発掘成果から言える範囲

「大規模な堀と石垣を持ち、曲輪間の進入経路にも防御上の工夫があった」までは強く言えます。一方、「城全体がこの形だった」とするには証拠が足りません。

🏺 堀からは16世紀後半の遺物も出土した

越前焼・陶磁器・古銭が見つかっている

北ノ庄城を考える証拠は石垣や堀だけではありません。

福井市によると、堀からは次のような遺物が見つかっています。

  • 16世紀後半の越前焼の擂鉢
  • 越前焼の甕
  • 陶磁器
  • 古銭
  • 焼けた土壁

遺構の位置だけでなく、そこから出た遺物の年代も合わせることで、勝家期の北庄城を考える材料が増えています

「焼けた土壁=1583年落城」とまでは断定できない

特に目を引くのが焼けた土壁です。

北ノ庄城といえば1583年の落城が知られるため、落城時の火災と結び付けたくなります。

しかし福井市公式の発掘成果紹介は、焼けた土壁が出土したことまでは示すものの、それを1583年4月の火災そのものと確定したとは説明していません

歴史記事では、「年代が合いそう」「状況が似ている」と「直接証明された」を分ける必要があります。

🔎 2017年の発掘で堀がさらに南へ続く可能性が高まった

公園以外の中央1丁目でも調査

北ノ庄城の考古学的調査は、1990年代の柴田神社・公園周辺だけではありません。

2017年9月26~29日、福井市中央1丁目でホテル建設に伴う発掘調査が行われました。

調査主体は福井市教育委員会事務局文化財保護課、調査面積は計90平方メートルです。

この場所では以前、北隣の調査で北ノ庄城の堀に関係すると考えられる石垣が確認されていました。

2017年調査では地表下約1.8mに大規模な落ち込みがあり、確認できた範囲だけでも幅3m以上、深さ2m以上でした

平成5年度に見つかった堀との連続性

この落ち込みは後世の造成によって壊されていたため、完全な幅は分かりません。

それでも位置や規模から、調査資料は平成5年度に北側で確認された北ノ庄城の堀につながるものと想定しています。

調査のまとめでは、平成5年度に確認された北ノ庄城の堀が南へ延びている可能性が高いと評価されました

時期 確認事項 考古学的な意味
1993年度以降 約25mの堀、石垣根石、曲輪、土橋 勝家期北庄城を考古学的に確認
2017年 堀につながる可能性の高い落ち込み 堀が南へ延びていた可能性が高まった

石垣そのものがなくても情報は残る

2017年の調査区では、北ノ庄城の石垣そのものは確認されませんでした。

しかし落ち込みを埋めた土には笏谷石(しゃくだにいし)の礫が多く含まれていました。

調査資料は、もともと存在した石垣が福井城築城時に抜き取られた可能性を示しています。

発掘では「残っているもの」だけでなく、「何が失われ、どのように地層が変わったか」も重要な証拠になります

🏗️ 北ノ庄城の全貌が残らなかった最大の理由は福井城

結城秀康の城づくりで大きく改変された

北ノ庄城の遺構が断片的なのには理由があります。

関ヶ原の戦い後、徳川家康の次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)が越前へ入り、大規模な城郭を築きました。

後の福井城です。

福井市は、勝家期北庄城の遺構がこの福井城造営によって大胆に改変され、城の全貌が失われたと説明しています

石垣上部が取り除かれたことも、その一例です。

北ノ庄城と福井城の二つの時代が重なる

現在の北の庄城址・柴田公園では、勝家の北庄城だけを見ているわけではありません。

地下には後の福井城の遺構も重なっています。

地層の切り合いを見ることで、新しい城が古い城をどのように改変したかを追える場所でもあります。

現地での見方

「石垣=全部北ノ庄城」ではなく、案内表示を見ながら勝家期と結城秀康期を分けると、この史跡の面白さがよく分かります。

🏯 9層天守は発掘によって証明されたわけではない

天守の層数と発掘成果は別問題

北ノ庄城について検索すると、9層の巨大天守だったという説明をよく目にします。

福井市公式ページでも、北庄城には9層の天守があったとする記録が紹介されています。

しかし、今回確認した発掘成果に「9層の天守構造そのものを発見した」という記載はありません

発掘で確認された主要なものは、堀、石垣の根石、曲輪、土橋、進入路、遺物などです。

天守の層数を考える文献史料とは、証拠の種類を分ける必要があります。

柴田神社周辺は天守跡と伝えられている

現在の柴田神社周辺は、勝家の北庄城天守があった場所と伝えられています。

そして実際にその周辺から勝家期北庄城に関係する遺構が確認されたことには大きな意味があります。

ただし、「柴田神社のこの一点が天守中心で、確認された根石が9層天守の基礎だった」とまで確定したわけではありません

証拠レベルを3段階に分けると分かりやすい

内容 現在の位置づけ
約25mの堀が存在 発掘で確認
石垣の根石 発掘で確認
曲輪・土橋 発掘で確認
堀が南へ延びる 2017年調査から可能性が高い
柴田神社周辺が天守跡 文献・伝承と発掘成果から考える位置
天守が9層 記録・文献側の情報
9層の構造そのもの 発掘では未確認

👀 現地で遺構を見るなら「露出遺構」と「復元表示」を分けよう

見えているものすべてが発掘時の姿ではない

北の庄城址・柴田公園は、発掘成果を一般の人が理解しやすいよう整備された公園です。

そのため、現地にあるものを「1583年当時の姿がそのまま地表へ出ている」と受け取るのは正確ではありません。

発掘状態で保存・展示されている部分、発掘成果を基に位置を示した部分、後世の福井城遺構などを案内板で確認することが重要です

資料館とセットで見ると理解しやすい

公園には北の庄城址資料館もあり、北庄城に関係する遺物や史料が紹介されています。

福井市の現行案内では、開館時間は午前9時から午後5時、年中無休、入館無料です。

先に資料館で城の構造を確認し、その後に屋外の堀・石垣を見ると、勝家期と福井城期の違いを理解しやすくなります

施設情報は変更される可能性があるため、実際に訪問するときは福井市の公式案内を確認してください。

📝 北ノ庄城の発掘遺構から分かったことのまとめ

考古学が裏付けたのは城の「存在と一部構造」

北ノ庄城の発掘成果を一言でまとめるなら、文献や伝承で知られていた柴田勝家の城について、その存在と城郭構造の一部を考古学的に確認できたということです。

1993年度以降の発掘では約25mの堀、石垣の根石、曲輪、土橋、進入路が見つかりました。

堀からは16世紀後半の越前焼や陶磁器、古銭、焼けた土壁なども出土しています。

さらに2017年調査によって、以前確認された堀が南へ延びていた可能性も高まりました。

天守の完全な姿はまだ分かっていない

一方で、北ノ庄城全体の縄張りや天守の完全な位置・構造まで判明したわけではありません。

特に9層天守は、発掘された構造そのものではなく文献・記録側から検討すべきテーマです。

結論

北ノ庄城は「消えて何も残らなかった城」ではありません。地下に残った堀、石垣、曲輪、土橋などから勝家の城の姿は確実に見え始めています。ただし、発掘で分かった範囲と後世の伝承を分けて見ることが、北ノ庄城を正確に理解する近道です。

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